田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観11~鶴澤悠美から田中悠美子へ古典の場では、 文楽の名人・10世竹澤弥七師のもとに長年通われた 鶴澤重輝師の東京のお稽古場に通い、 「ツレ弾き」がある演目に並ばせていただいて、 駒之助師、重輝師とご一緒に 越路太夫師のお稽古に 連れていっていただいたり、と たくさんの学びと感動がありました。 しかし、...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観10~野澤錦鈴から鶴澤悠美へドイツツアー帰国後 、、、、、 当然ながら「ただ」ではすみませんでした、、、 (T_T) 錦糸師匠からはクビを申し渡され 「野澤錦鈴」の名前は永遠になくなったのです。 駒之助師が心配して下さり、 師の越路太夫師にご相談されたところ、 「越路師預かり」という形で...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観9~ドイツのツアーに大学院も、 修士課程は通常2年のところ 1年延長(;^ω^)! 3年目に修士論文 「三味線音楽の旋律型分析試論 ――初代都一中作の一中節を中心として」 を提出し、 3月、無事に修了。 学部に6年、院に3年、 計9年もモラトリアムを満喫した 夢のような学生生活も...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観8~初舞台そして現代邦楽本牧亭での初舞台は 「お盃」の儀から1年後、 大学4年の12月でした。 もちろん、 大学ではそれなりに勉強して、 それなりの成績を取っていました(;^ω^)。 楽理科の学生は、超優秀な女子がほとんどで、 変わった感じのオタクっぽい男子や、...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観7~文楽の師匠に入門じつは、 三味線をはじめたことについて 母は猛反対でした。 「せっかく今までピアノのお稽古を続けてきたのに、 三味線???? そんな大道芸で使われるような楽器 とんでもない!!!! 三味線折ってやる~!!!! キーーーッヾ(*`Д´*)ノ"彡☆!!!!」...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観6~伝統芸能界へ東京芸大には邦楽科があります。 当時は、 三味線音楽の長唄、常磐津、清元、 邦楽囃子、 箏曲、尺八、 能楽、能楽囃子 の各専攻があり、 2年生から副科実技として 専攻生でない学生もレッスンを受けることができました。 文楽をみて義太夫三味線を演奏してみたい!とひらめいたのは...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観5~三味線にであうお受験のために 母が探してくれた先生は、 東京芸大楽理科出身の 超優秀で、見目麗しい先生でした。 ご主人は大手企業の役員さんで、 お勤めしながら作曲家でもあるという なんとも優雅な方。 その先生のもとで、 英語の楽書購読や小論文の書き方を学び、...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観4~大学はピアノ科でなく楽理科へさて、 高校2年生ともなれば 大学の進路を決めなくてはなりません。 毎日のおうち練習が負担ではありましたが、 小学校のころから 毎週日曜日に父の運転で東京までレッスンに通って 「ピアノの田中さん」と言われ、 母もそのことに誇りをもって親戚によく自慢していた(;^ω^)ため、...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観3~ピアノが上手なフツーの女の子が、、源頼朝の屋敷跡地にある 清泉小学校の生徒さんたち、 当時は比較的裕福なおうちの子が多かったようです。 わたしは 横須賀線で戸塚から鎌倉まで通っていましたが、 電車の中でよく 横須賀基地の米兵さんに 「かわいいねえ!」と声をかけられ 遊んでもらった覚えがあります。...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観2~こどものころは1960年(昭和35年)3月某日、 福岡県北九州市で、私は田中家の一人娘として生まれました。 父は「家庭より会社」の、いわゆる昭和の企業戦士。 母は世間知らずのお嬢様育ち。 生まれてすぐに横浜に引っ越し、横浜で育ちました。 母に抱かれておでかけすると、...
田中悠美子(ながえゆみこ)わたしの世界観1~自己紹介これから新しい自分に変わるために、 自分史をつづってみたいと思います。 田中悠美子、60歳まであとちょっとの58歳アラカン女子。 音楽家。 花の18歳から義太夫(ぎだゆう)三味線をはじめて、 もう40年も経ちました( ゚∀゚; )タラー!! 義太夫三味線というのは、 日本の伝統