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田中悠美子(ながえゆみこ)

わたしの世界観2~こどものころは


1960年(昭和35年)3月某日、

福岡県北九州市で、私は田中家の一人娘として生まれました。

父は「家庭より会社」の、いわゆる昭和の企業戦士。

母は世間知らずのお嬢様育ち。

生まれてすぐに横浜に引っ越し、横浜で育ちました。

田中悠美子あかちゃんのころ

母に抱かれておでかけすると、

「こんなにかわいい赤ちゃんはみたことがない」

とまわりに自然と人が集まってくるほどだったらしく、

母の里である福岡の祖父に

目に入れても痛くないほどかわいがられていました

里帰りすると、私は24時間祖父と一緒。

父よりも

祖父にかわいがられていた記憶のほうが強い。

そして、母の兄弟全員からも、

ものすごくかわいがってもらいました。

そういえば、

母は年の離れた妹(私の叔母)といつも一緒だった、、、

幼稚園では、

かわいかったゆえに(;^ω^)いじめられていたような覚えが、、、

(本人は気付かず(;^ω^)、幼稚園の先生に言われて、、)

小学校は

鎌倉のカソリック系私立の清泉小学校に入学。

小食でごはんが食べれなくて、お弁当の時間はいつも居残り。

(今思えばタッパーのお弁当箱のにおいが気持ち悪くて

 食べれなかった)

お菓子ばかり食べていたせいもあり、

体育の時間はいつも一番前の列でした。

小学校低学年まではとてもおとなしい子でしたが、

中学年からすっかり「たが」がはずれ、

休み時間になると男の子にまじって

人一倍高くて通る声でキャーキャー騒ぎまくり、

先生によく叱られていたっけ。

ピアノがけっこう上手で、

そのころから人前でなにかを表現することに

慣れていました。

毎週日曜日、父の運転する車で通っていた

東京のピアノの先生は、

かなりのスパルタ

母はその気になって

毎日毎日「ピアノの練習をしなさい」と口うるさかったので、

それが嫌で嫌でアパートに帰りたくなくて、

放課後夕方遅くまで学校の森で遊んでいました。

夢はお花屋さん。

そういえば、

そのころから直感は鋭い方でした。

ある日体育の授業で逆立ちの練習をしていたら、

突然空のむこうから「サイン」のようなものが送られてきて、

20秒くらい逆立ちキープ

時間が止まってました

まったく泳げなかった水泳のテストでも

天からの「サイン」が送られて突然25m泳げたことも

そのときも時間が止まってた~、、、

蝶よ花よのこども時代。

なんの自覚もなかったけど、

今思えばわたしはただそこにいるだけで光を放ち、

天に守られ、天とつながり、

周りの大人たちを癒していたのです。

つづく


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