ドイツツアー帰国後
、、、、、
当然ながら「ただ」ではすみませんでした、、、
(T_T)
錦糸師匠からはクビを申し渡され
「野澤錦鈴」の名前は永遠になくなったのです。
駒之助師が心配して下さり、
師の越路太夫師にご相談されたところ、
「越路師預かり」という形で
駒之助師の門に戻り、
当時駒之助師のお三味線を弾かれていた
女流の鶴澤重輝師にお稽古をみていただくよう
采配していただくことになりました。
名前は自分のペンネームの「悠美子」からとって
「鶴澤悠美」に改名。
それまで、
駒之助師の三味線を弾かせていただくときには、
錦糸師に三味線をお稽古していただき、
そのあと越路師の京都のご自宅にも
必ずお稽古に連れていっていただいて、
「一生の宝」となるようなお稽古を
何度もご一緒させていただいていましたが、
越路師はこの不祥事に対して寛容に受け止めてくださり、
駒之助師とともに救いの手を差し伸べて下さったのでした
( ;∀;)
錦糸師匠はその翌年人間国宝に認定され、
同じ年の11月、悪性腫瘍により他界されました。
4世鶴澤綱造譲りの剛腕、
2世野澤喜左衛門譲りのはなやかな芸風。
愛犬のブルドッグちゃんをこよなく愛しておられ、
お酒を飲んでおられるときのご機嫌なお顔は
今でも忘れられません。
さて、
そんな大事件が起こったあと、、、
竹本土佐廣師を
女流義太夫初の人間国宝の座に導くとともに、
長年「畳敷きの会場から椅子席の会場へ!」と
運動されていた
当時の義太夫協会会長・吉川英史先生のご尽力で、
1989(平成元)年に
月例公演の本拠地が
本牧亭から国立劇場演芸場に変わりました。
そのころから、
ご高齢で体調が不安定な重輝師の
代演控えとして、
毎月大曲を覚えなくてはならない状況となり、
何時間も正座しっぱなしのお稽古三昧の日々。
新橋演舞場の音楽劇「天下御免」公演で、
1か月間日本髪の鬘をつけて毎日2公演、というハードワークに
微熱が続くようになりました。
その一方で、
日本音楽集団の海外公演や、
間宮芳生氏の作品を始めとした「現代音楽」の演奏も増えていき、
故・野村万之丞氏の声かけで
新作演劇イタリア公演の音楽を担当し、
能笛方の一噌幸弘氏と共演して
「即興音楽」の存在を知ったり、
太田幸子(杵家七三)先輩のご縁で
仙波清彦氏とつながり、
ジャズ界、フュージョン界の超売れっ子ミュージシャンと
共演する機会をいただいたりして、
外の世界は広がるばかり。
「また”あっちゃ”の世界で弾いてきたやろ!」と
駒之助師に言われ続けながらも、
自宅を出て家賃を払う身には古典以外の収入も必要だったし、
なにより
古典の厳しい修行に息が詰まり悲鳴をあげていた身体が、
外の世界では息を吹き返すという事実が、
私の「真実の声」を物語っていました。
翌春には、
芸術選奨文部大臣新人賞(音楽部門)を受賞し、
NHKの邦楽番組で取り上げられたり、
サントリーホール、NYのカーネギーホールにて
三木稔先生の「序の曲」(尺八、二十絃箏、太棹三味線の独奏と弦楽合奏)を
若杉弘指揮の東京都交響楽団と共演したり、
玉川大学の非常勤講師のお仕事が始まったり、、、
はた目には順風満帆にみえながら、
実際のところ、
私の心は
千々に乱れるばかりでした。
新人賞受賞の記事
つづく