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田中悠美子(ながえゆみこ)

わたしの世界観8~初舞台そして現代邦楽


本牧亭での初舞台は

「お盃」の儀から1年後、

大学4年の12月でした。

もちろん、

大学ではそれなりに勉強して、

それなりの成績を取っていました(;^ω^)。

楽理科の学生は、超優秀な女子がほとんどで、

変わった感じのオタクっぽい男子や、

NHKなどのメディア関係に就職するために入学した現実派男子も

パラパラと混じっていました。

なかには、

ピアノばかり弾いている人とか、

チェンバロ奏者を目指す人とか、

単に、芸大に入れるならどの科でもよかった、

というような人もいましたが、

そのほとんどが、

音楽学の研究者、音楽評論家、大学の先生などをめざしていて、

まさに「お勉強大好き!」な人たちが

しのぎを削っている状態。

そんな中、

三味線演奏にすっかりはまっている私は

かなり異質な学生でしたが、

同学年に日本音楽研究を専攻するおともだちが

けっこういたし、

民族音楽研究のカリスマであった

故・小泉文夫先生や、

日本音楽研究の小島美子先生といったスター研究者が、

民族音楽や日本音楽のすばらしさを強力に発信されていたので、

日本音楽を演奏することに

おおいなる誇りを持つことができたのでした。

論文の指導教官は、

能楽研究の大家

故・横道萬里雄先生。

丸眼鏡のおじいちゃんで、

「おじいちゃん好き」な私の一番のお気に入りでした。

名物の「弾丸トーク講義」は

情報量がハンパなく、

毎回ノートを取ってついていくのにみな必死(>_<)!!!

しかも能のお謡や仕舞、囃子の実演が入りまくり、

「理論と実技の両輪」による研究成果は

他の追随を許さないものがありました。

わあ!私も横道先生のように、

演奏や実技にしっかりと沿った研究をしたいなあ!

とすっかり感化されたこともあり、

ますます三味線の演奏にのめりこんでいったのです。

さて、

本牧亭の初舞台は、

駒之助師がメインで語ってくださる

《仮名手本忠臣蔵》〈裏門の段〉

邦楽科や楽理科のおともだちに

たくさん来てもらって、

楽しい舞台デビューとなりましたヽ(^。^)ノ

すっかり味をしめた私(^_^;)、、、、

せっかくこれまで五線譜をたくさん読んできたのだから、

譜面のある音楽を三味線で演奏したいなあ!

と考えるのは、いわば自然の成り行きでしたが

、、、、

あった、あった、ありました

清泉女学院の先輩だった

太田幸子先輩(現・杵家七三)が

長唄三味線科に在籍されていて、

「日本音楽集団」という邦楽器演奏グループで演奏されている

という噂を聞きつけ、

先輩が「三味線コンチェルト」を演奏するコンサートに

うかがいました

すると、

笛・尺八・三味線・琵琶・箏・十七絃・打楽器などが居並ぶ

いわば和楽器オーケストラが、

着物を着た指揮者のもと

譜面をみながら演奏しているではないですか(゜o゜)

日本音楽集団

日本音楽集団

なんだこれは!!

私もやってみたい!!

モラトリアムをめいっぱい使うため、

卒論を提出せずにめでたく(;^ω^)学部5年生になった私は

「日本音楽集団」の研究団員となり、

同時に

邦楽演奏家が五線譜による合奏を学ぶ講座

「NHK邦楽技能者育成会」にも合格。

通常2年のところ1年で研修期間を終えて

日本音楽集団の団員となり、

育成会も無事に卒業して、

古典の修行と並行して

「現代邦楽」の演奏活動も始めることに!!

学部6年でようやく

「義太夫節の旋律型の研究」という卒論を提出し、

さらなるモラトリアムのため(;^ω^)修士課程に進みます。

大学院2年のころには、

三木稔先生のオペラ"Joruri"に参加するため

セントルイスに1か月滞在し、

超若手ながら、二十弦箏と尺八の先生と一緒に

セントルイス交響楽団と共演。

あれよあれよというまに

海外演奏まで(;^ω^)、、、、

まだ「ぺいぺい」の駆け出しで、

古典の義太夫三味線の勉強だけでも大変なのに、

現代音楽の作曲家が手がけた五線譜による作品を演奏する

「現代邦楽」も演奏しようというのですから、

ろくなことになるわけがありません(;^ω^)。。。

このころから駒之助師には

「あっち(現代邦楽)の世界で弾いてきて

こっち(義太夫節)に戻ってくると、

あんたの三味線の芸が違うてしまうから、

すぐにわかるわ、、、」

と頻繁に注意されるようになりました。

そして、ついに事件が起こります。

つづく


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