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田中悠美子(ながえゆみこ)

わたしの世界観28~頸椎ねじれ症の引き金は母娘関係?

更新日:2020年3月26日


母の手術と

父の入退院。

なのに両親のことは

主人と施設のスタッフさんに任せっきり。

ドクターの施術や病院にでかける以外は

家に引きこもり、

1日中ソファに座りっぱなしで

頚椎ねじれ症の痛みやふらつきと闘う娘。

自分の治療のためだったら

外出できるのに、

両親のことになると

動けなったのはなぜか???

もちろん

痛みや症状がきつかったということもりますが、

ほかにもっと根深い理由がありました。。。

そもそも

「頚椎ねじれ症」の序章である

めまいが始まった引き金が、

母vs.娘+父の三つ巴の大ゲンカだった

(⇒「わたしのストーリー21~母の一時退院でマグマ噴出」)

ということが

ずっと頭から離れず、

親に会いにいくことで

まためまいが再発するのではないか、、

という不安と恐怖に

心も身体もがんじがらめになっていたのです。

高齢で互いに要支援・要介護の状態なのに、

コミュニケーションがうまく取れずに

ことあるごとにいがみあってしまう

父と母、、、

ふたりの長年にわたる経済問題、、、

一人娘として

これからこの2人を背負わなくてはならない

不安と重圧に耐えかねて

めまいが起こり、

その後

加速度的に頚椎ねじれ症が悪化、、、

私の中では

そうとしか考えられませんでした。

長年お世話になっていた

高田馬場の整体の先生に言われた

「めまいの原因は、母娘関係にあるんじゃないかな、、、」

という言葉が、

どうしても頭から離れなかったということもあります。

遡れば、

小さなころから

父と母は喧嘩ばかり。

こんなうちに生まれなければよかった。。。

なにしろ

母が貧乏学生だった父と結婚した一番の決めては、

「九州大学で一番の成績だったから」

(;^ω^)、、

「一度結婚を断ったのに、

仲介者を立ててもう一度頼みにきて、、、

再度お断りしたときの後ろ姿が

あまりにしょんぼりしていて

なんだかかわいそうだったのよ、、、」

そのほかの理由は、

実家にいて

兄たちにいろいろ用事を言いつけられるのが嫌だったので

早くうちを出たかった、、、

結婚して、

家にすてきなレースのカーテンを

吊りたかった、、、

(;^ω^)

私は

謎の多い不在がちな父と

うまくコミュニケ―ションが取れないので、

結果母といつも一緒。

母は私が物心ついた時から

「パパは結婚当初ずっと家にお金を入れなかった」

「結婚式はすべて福岡のおじいちゃまがお金を出した」など、

ことあるごとに父や父方の家の悪口を私に吹き込み、

いっぽうの父は無口で

何を考えているのかちっともわからず、

私は母の話を一方的に信じざるを得ない

状況でした。

父としっくりいかない母のエネルギーは

当然のように一人娘に集中。

親戚や知り合いの前で、

「うちの子は鎌倉の私立の学校で、同級生には地元の名士が、」とか

「東京のピアノの先生のところに毎週通っていて、、」とか

「学校の成績がよくて、、」とか

娘のことをやたら自慢げに話していたことを

強烈に覚えています。

「私がプロテスタント系の短大の寄宿舎に入ったとき、

 アメリカ人の美しい先生が

 オルガンを弾いて讃美歌の伴奏をしてくれてね。。。

 戦後すぐのことだったから、

 それはそれは夢のような情景だったわ。

 だから、あなたには英語と音楽を身につけてほしいと

 ずっと思っていたのよ!」

と言われ続けていたので、

学校でそこそこお勉強ができてピアノも弾ける娘は

自慢の種だったのでしょうが(;^ω^)、、、

自分ではまったく自覚していませんでしたが、

知らず知らずのうちに

母が喜ぶような娘を

演じていたのかもしれません。。。

今思えば

いつまでも子離れできない母の

過干渉に過保護、、、

過剰にかわいがられていたのに、、、

なのになのに、、、

なぜか私は面と向かって母に褒められた覚えがない。。。

なぜか

母に無条件でぎゅーっと抱きしめられた

覚えがない。。。

それどころか、

母から言われて嫌だったことが忘れられない。。。

小学校6年で生理になったときは、

お祝いされるどころか

「まあいやだ!もう生理になったの!」と

たったひとこと(-_-;)、、、

その上、、、

こどものころは

とってもかわいかったのに、

長じるにしたがいごくフツーの容貌、背は小さいまま、、、

そうなってくると、母の美しさが目立って

周囲には

「田中さんのお母さまは華やかで美人ねえ」

とばかり言われるようになり、

母はきれいきれいと言われるのに

私はたいしたことないんだ、、、

というコンプレックスが頭をもたげてくるように

。。。

中学高校とずっと女子高。

男性とまともに話せないくらい奥手だった私は、

20代後半のころ、母にお尻を叩かれて何度かお見合いしましたが、

音楽大学、しかも大学院修了という

お見合いでは敬遠される不利な経歴と、

背が小さい(150㎝ない)というハンディーがきつくて、

これといったお相手が申し込んでくれるわけでなく、、

そうなると、母は自分の虚栄心をずたずたにされて(^^;)、

「私はモテモテだったのに、あなたはちっとももてないのね、、」

などと娘をなじるありさま( ;∀;)。。。

まあそのくらいのことなら

どんな家にも多かれ少なかれ

あるようなことで、

さほどたいしたこともないかもしれませんが、、、

両親の不和や無神経な言動が

与えた傷は、

いつまでも子どもの心の奥底に

残ってしまうと言います。

そして、

その後発覚した

母がずーっと実家の経済に依存していたという衝撃の事実。

しかも、娘にお金がかかるという言い訳のもとに(T_T)、、、

もう不信感が止まりません。。

父のことがよく理解できず、

母べったりだった私が、

今度は

母のことが理解できない。。。

好きになれない。。。

というスパイラルにどんどんはまっていきました。

身内の最も愛すべき両親が

好きになれない、、、

本当に苦しいことでした(;_;)。

そんなこんなで、

両親のもとに帰るたびに

3人でけんかになってしまうので、

実家からは自然に足が遠のきました。

幸いなことに、私が結婚してから

少しずつ様子が変わってきました。

毎年お正月に夫婦そろって実家に帰るようになり、

主人と父が意気投合したのです。

父の江田島海軍兵学校の話や、

会社でのプログラミングの仕事話など聞いて、

主人は「お父さんの思考法や生き方には共感するなあ、、」

と感心しきり。

母や私では相手不足だった父も、

(最初から私たちのほうが、父の話を聞く気がなかったのかも

 しれません)

ムコ殿とは話しが合ったようです。

主人があんまり父のことをほめるので、

私も少しずつですが父に対するわだかまりが

消えていったのでした。

そして、

父の入院騒ぎで

こんな私も

ようやく父のことを心配するようになり、

母の入院のときは、

毎日杖をつきながら文句ひとつ言わず

母の見舞いに通っている父のことを

いとおしく感じるようになって、

病院から実家に戻る道すがら、

父娘ふたりで

ようやくゆっくり話すようになったり、、、

いま思い出しても

涙がこぼれます。

しかし、母の一時退院の日に

またもや親子3人大ゲンカとなり、

その後私はめまいが悪化して

頚椎症が表面化。

横浜のアパートに行ったり、

病院に見舞いに行って

両親に接することで

まためまいが再発するのではないか?

という底知れぬ不安と恐怖心が

とどまることなく増幅され、

入退院を繰り返す両親のもとから

足が遠ざかっていくのでありました。

つづく

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